視覚について理解する

カール・ツァイス、エルンスト・アッベとオットー・ショット - A Winning Team

彼らのアイデアが世界を変えた

16 10月 2020
  • カール・ツァイス、エルンスト・アッベとオットー・ショット - A Winning Team

数学、物理、化学および精密機械の知識を前代未聞の形で 組み合わせ、先駆的な発明のいくつかの基盤を作り上げた三人の男:カール・ツァイス、エルンスト・アッベおよびオットー・ショットの三人は、光学産業を飛躍させた事業家です。BETTER VISIONによる肖像。

Carl Zeiss

ライバルよりも品質が良いだけでなく、価値のある製品

事業は非常に順調に進み、ツァイスは短期間のうちに手を広げ、社員を雇用して、大きめの工場に移りました。当社にとって、シンプルな顕微鏡がとても大きな収益源となりました:競合に比べ、価値があるだけでなく、品質も優れていたからです。すでにこの頃から革新的になるというツァイスの意志が垣間見えます。他の製造業者の製品と違い、ツァイスでは焦点の設定を試料ステージではなく、直接コラムで行うことができるという、非常に簡単な操作方法を採っていました。

Ernst Abbe

チームワークで世界的成功を達成

しかしツァイスはこれには満足せず、その後数年かけて顕微鏡技術をさらに改良していきます。特に、使用可能な光学システムを達成するためにレンズを「トライ・アンド・エラー」で交換しながら最適なものをみつける、という当時一般的な製造方法を古いと考えていました。「トライ・アンド・エラー」の非効率なシステムに直面したツァイスは、一般的なやり方を無視して、顕微鏡レンズを製造するときには、計算方式を使う、というアイデアを開発しました。そして、理想的な製造プロセスの企画を実現するために、1866年に一人の社員を採用しました。この時から、ツァイスは物理学者のエルンスト・アッベ(1840~1905年)とともに、競合製品の光学的性質を超えるような顕微鏡の発展という偉大なゴールを目指して協力体制を組んだのです。ツァイスは50歳、アッベはわずか26歳のときのことでした。年齢は離れていても、二人はヴィジョンを共有していました。このチームは、六年間にわたり精密を極める作業を行い、最善を尽くして設計し、ツァイスはいよいよ1872年に、競合企業の製品の品質をすべて超える顕微鏡を発表することができました。この優れた競争力は国際的にも認められ、科学および医学界に称賛を浴びました。ツァイスはこの成功を機にアッベに対して惜しみない経済支援を申し出て、1875年には共同経営者にしました。

独立への道

会社は急激に成長し、販売台数はどんどん伸び、社員数もそれに合わせて増えました。それでも解決しなくてはならない問題が一つありました。ツァイスとアッベは素晴らしい顕微鏡レンズを作ったものの、特殊な光学ガラスを購入することができませんでした。自分達で製造を始め、最高品質の光学ガラスをイェナで作りたい、という夢。しかし、どのように実現したらよいのでしょうか。

答えを見つけるのにあまり時間はかかりませんでした。ヴィッテン出身の28歳の化学者でありガラス専門家のオットー・ショット(1851~1935年)が少量のガラスを溶解する技術を開発したのです。おかげで、いろいろな成分構成を実験することが可能になりました。彼は、リチウムガラスという、全く新しい光学特性のガラスを熔解しました。ためらうことなく、1879年に世界で有名な物理学者であったアッベにサンプルを送り、それ以来非常に密接な、大きな成果を上げる協力体制が始まったのです。ショットは、彼のためにガラス実験室が設立された(これが後のイェナ・グラスヴェルク・ショット&ゲノッセン社、現在のSCHOTT AGの前身です)イェナに居を据えました。ショットはここで初めて新種の光学ガラス材料を開発製造し、耐熱、化学薬品耐性のあるボロシリケイトガラス(イェナガラス)を発明しました。このことにより、製品ラインナップを拡張することができました。カール・ツァイス、エルンスト・アッベおよびオットー・ショットは、運命によって結ばれたウィニング・チームでした。

ツァイスとアッベ - 責任感の強い事業家

ツァイスとアッベは、科学界のパイオニア、そして事業家としての幅広い実績だけではなく、社会政治上の素晴らしい進歩にも貢献した責任感の強い人でした。カール・ツァイスの死後、1888年にアッベは会社およびガラス事業の株をツァイス一族とともに、カール・ツァイス財団に移転しました。彼は会社の存続を個人的な利害からは切り離したい、と考えたのです。アッベは、1896年に定款を書き上げ、以後、当社の利益はイェナ大学とイェナ市の市民のために利益をもたらしました。このような法的な取り決めは、大変斬新なものでした。労働法など存在せず、社員と雇用主の関係がまだ非常に家父長的な色が濃かった時代に、労働者の権利を法的に明文化したのです。他の企業もその後(1900年頃から)最終的には一日あたり9時間または8時間労働といった規制を導入しましたが、これらの労働条件はZEISS社員にははじめから保証されていました。


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